企業において「健康保険」は、毎月の給与計算や入退社時の手続きで必ず扱う身近な存在です。しかし、私たちが支払っている健康保険料が、病院(医科)、歯医者さん(歯科)、薬局(調剤)でどのように使われ、どのようなルールで運用されているのか、その全体像を把握している方は少ないかもしれません。 実は、従業員の皆様が適切な医療を受けることは、健康経営や労働生産性の向上に直結します。また、医療費の無駄を省くことは、労使で折半している社会保険料の負担増を防ぐことにもつながります。 今回は、厚生労働省の令和8年度版資料に基づく「医科」「歯科」「調剤」の最新ルールから、社労士の視点で、日本の医療保険制度の素晴らしい仕組みと、知っておくべき賢い利用法について見ていきたいと思います。
日本の医療保険制度の特徴

3つの大きな特徴を持っています。日本に住んでいると当たり前のように感じるかも知れませんが、どれも非常に優れた制度となっています。
海外の医療保険制度との比較から見る日本の特異性
日本の「国民皆保険」と「フリーアクセス」が両立している状況は、世界的に見ると実は非常に珍しいものです。
例えば、アメリカの医療制度は基本的に「民間保険」が中心です。公的な高齢者向け保険(メディケア)などはありますが、現役世代の多くは勤務先を通じて民間保険に加入するか、高額な保険料を払って個人で加入します。民間保険の種類によって「受診できる病院のネットワーク」が厳格に決められており、ネットワーク外の病院を受診すると莫大な自己負担が発生します。つまり、日本のような「フリーアクセス」は存在しません。
一方、イギリスにはNHS(国民保健サービス)という制度があり、税金を財源としているため、原則として窓口での支払いは無料です。これは非常に優れた点ですが、患者はまず自分が登録している地域の総合診療医(GP)を受診しなければならず、直接専門医や大病院に行くことはできません(ゲートキーパー制度)。さらに、専門医の診察や手術を受けるまでに数ヶ月から半年以上待たされることも珍しくありません。
このように比較すると、日本がいかに「いつでも、どこでも、誰でも、少ない自己負担で」高度な医療を受けられる恵まれた環境にあるかがよくわかります。しかし、この安心の制度を維持するためには莫大なコストがかかっています。令和5年度の日本の国民医療費は、48兆915億円に達しました。このうち、約半分にあたる24兆1,383億円が「保険料」によって賄われており、今後も高齢化の進展により上昇が見込まれています。
国民医療費の推移

出典:厚生労働省「国民医療費の状況」
つまり、医療費が増大すればするほど、協会けんぽや健康保険組合等の財政が圧迫され、結果として企業と従業員が負担する社会保険料率の引き上げにつながるのです。労務コストを適正に保つためにも、医療の仕組みを理解し、無駄のない受診を心がけることが大切になってきます。
医科(病院・クリニック)の厳格なルールと労務管理上の留意点
私たちが病院を受診する際、保険医療機関と保険医は「健康保険法」に基づく厳格な公法上のルールに従って診療を行っています。 例えば、医師は自ら診察を行わずに薬を処方する「無診察治療」を法律で固く禁じられています。忙しい従業員が「いつもの薬だけ出してほしい」と求めても、医師は必ず診察をしなければならないのはこのためです。 また、企業の人事労務担当者にとって馴染み深い「傷病手当金」の申請には、医師の意見書(証明)が必要です。この際、医師は事実に基づいた医学的に妥当な傷病名をカルテに記載しなければなりません。審査を通りやすくするための架空の病名(いわゆるレセプト病名)をつけることは極めて不適切とされています。企業側も、従業員の休職や職場復帰等において主治医と産業医が連携する際、こうした医療機関側の厳格なルールを理解しておくことで、スムーズなやり取りが可能になります。 さらに、大きな病院の入院では「DPC/PDPS(診断群分類別包括評価)」という、病気ごとに1日あたりの定額が決められた制度が導入されており、無駄な検査や投薬を減らす工夫がされています。
※DCP:入院患者の病名や実施した手術、処置、合併症の有無、重症度などに基づいて、患者をグループ分け(約4,000通り)する分類手法です。
※PDPS:DPCで分類されたグループごとに、1日あたりの入院費用の単価(包括点数)が定められている支払い方式のことです。
出典:厚生労働省「保険診療の理解のために 【医科】(令和8年度)」
歯科(歯医者さん)の保険診療と「口腔ケア」の重要性
次に、歯科治療についてです。歯科の保険診療においても、医科と同様に厳格なルールが存在します。 歯科治療では、保険がきく治療(代用合金などの使用)と、保険がきかない自費治療(金合金や特定の材料)が明確に分けられています。また、歯科矯正は原則として保険適用外ですが、特定の先天性疾患や顎変形症などによる咬合異常の場合に限り、例外的に保険診療の対象となるケースが細かく規定されています。 社労士の観点から特に注目したいのは、近年拡充されている「歯周病継続支援治療」などの口腔機能管理です。歯周病は、糖尿病や心疾患など様々な全身疾患への悪影響が指摘されています。従業員の口腔内の健康状態が悪いと、結果的に全身の不調を招き、欠勤や労働生産性の低下(プレゼンティーズムやアブセンティーズム)につながります。 予防歯科としての定期的なメンテナンスは非常に重要であり、企業が福利厚生の一環として「歯科健診」を推奨することは、従業員の健康寿命を延ばし、長期的な医療費(保険料)の削減に大いに貢献します。
出典:厚生労働省「保険診療の理解のために 【歯科】(令和8年度)」
調剤(薬局)の最新事情~かかりつけ薬剤師とリフィル処方箋~
医療費適正化と従業員の健康管理において、現在最も重要な役割を担っているのが「薬局(調剤)」です。処方箋に基づく調剤は、医師と薬剤師が役割を分担する医薬分業の要です。薬局を賢く利用するためのポイントとして、以下の4点が挙げられます。
ジェネリック医薬品とバイオ後続品の積極的な利用
医師や薬剤師は、患者に対してジェネリック医薬品等を選択する機会を提供するよう努める義務があります。ジェネリック医薬品は先発医薬品と同等の効能を持ちながら価格が安いため、健康保険全体の医療費削減に直結します。さらに、患者が自己の希望で長期収載品(先発医薬品)を選択した場合、後発医薬品との差額の一部を選定療養(自費負担)として支払う仕組みも導入されています。
「かかりつけ薬剤師」とお薬手帳の活用
薬局では「服薬管理指導料」が算定されますが、患者が「かかりつけ薬剤師」を指名し同意することで、一人の薬剤師が継続的かつ一元的に服薬状況を管理する仕組みがあります。複数の病院から薬をもらっている場合、「お薬手帳」を1冊にまとめて提示することで、重複投薬や相互作用を防ぐことができます。また、手帳を持参することで、服薬管理指導料の自己負担が安くなる場合もあります。
ポリファーマシー対策と残薬調整
高齢の従業員や持病を多く抱える従業員において問題となるのが「ポリファーマシー(多剤服用による副作用等のリスク)」です。薬剤師は服薬状況を把握し、処方医へ減薬の提案を行ったり(服用薬剤調整支援料)、家に余っている薬(残薬)を確認して調剤日数を減らすよう医師に連絡したり(調剤時残薬調整加算)します。
リフィル処方箋による仕事と治療の両立支援
症状が安定している患者に対して、医師の判断により、最大3回まで反復利用できる「リフィル処方箋」が導入されています。これを活用することで、従業員は毎回病院を受診しなくても薬局で薬を受け取ることができ、通院のための有給休暇の消化や遅刻・早退を減らすことができます。これは「仕事と治療の両立」を支援する強力なツールです。
出典:厚生労働省「保険調剤の理解のために(令和8年度)」
新しい治療への備え「保険外併用療養費制度」
日本の医療制度では、原則として「保険がきく治療」と「保険がきかない自費治療」を同時に行う「混合診療」は禁止されています。しかし、例外として「保険外併用療養費制度」という仕組みがあります。 これには、将来の保険適用を目指して評価中の「評価療養(先進医療など)」や、患者が自ら希望して追加費用を払う「選定療養(個室の差額ベッド代や、200床以上の大病院の初診料など)」、そして患者の申し出に基づく「患者申出療養」が含まれます。これらの治療を受ける場合、基礎的な部分には保険が適用され、追加部分のみが自己負担となります。企業としては、従業員が万が一大きな病気に罹患した際に先進医療などの高額な治療費をカバーできるよう、福利厚生として民間の医療保険(団体保険など)に加入しておくなどのリスクヘッジも検討に値します。
制度を守るための厳格な「指導と監査」
ここまで解説してきた複雑な医療保険制度ですが、ルールを破る不正に対しては非常に厳しい措置が用意されています。 行政は、保険医療機関や保険薬局に対し、定期的な「指導」を行い、不正や著しい不当が疑われる場合には「監査」を実施します。架空請求や付増請求などの不正が発覚した場合、過去5年分にさかのぼって診療報酬や調剤報酬を返還させられるだけでなく、悪質な場合は40%の加算金が上乗せされます。さらに「指定の取消し」という事実上の倒産に直結する重い処分が下され、原則5年間は再指定を受けられません。令和5年度だけでも、医科・歯科・調剤合わせて約48.5億円の返還が求められています。この厳格な監視体制があるからこそ、私たちが納めている健康保険料が不正に流出することなく、制度の健全性が担保されているのです。
保険医療機関等の指定取消等及び保険医等の登録取消等の状況


出典:厚生労働省「令和6年度における保険医療機関等の指導・監査等の実施状況」
労使一体となって医療保険制度を正しく活用しよう
私たちが普段利用している「病院」「歯医者さん」「薬局」の背景には、医療の質を担保しつつ限られた財源を有効に活用するための、非常に緻密で厳格なルールが存在しています。 企業を支えるのは「人」です。従業員が健康に長く働き続けられるよう、企業は定期健康診断や歯科健診の受診を促すだけでなく、お薬手帳の持参やジェネリック医薬品の選択、リフィル処方箋の活用といった「賢い患者になるための知識」を社内で啓発していくことが求められます。 これらの小さな積み重ねが、結果として従業員自身の負担を減らし、さらには企業が負担する健康保険料の増大を抑制し、世界に誇る日本の医療保険制度を未来の世代へ引き継ぐことにつながります。 私たち社会保険労務士も、各企業の実情に合わせた健康経営のアドバイスや、傷病手当金をはじめとした社会保険制度の円滑な手続きを通じて、従業員の皆様の安心と企業の健全な発展をサポートしてまいります。ぜひ、この機会に社内の医療・健康リテラシーを高める取り組みを始めてみませんか。
今回は日本の医療保険制度について見てきました。私も病院に電話で問い合わせた際、診察が面倒だったこともあり前回と同じ薬を処方してほしいとお願いしたことがあります。その際に受付の方が「先生の診察をうけてから」と仰ったことに疑問を感じましたが、法律違反だったことに今回気づかされました。今後、少子化・高齢化の進展もあり社会保障の見直しは避けられない状況です。アメリカのような医療格差が生じてくる可能性もあります。私たちも他人ごとではなく、医療・介護・福祉・年金など重要な政策に対して注視していく必要がありそうです。











